俺の望まざる転機

良いお題なので、久しぶりにブログを書いてみる。

「転機」が訪れたのはいつ?

ということらしい。ふむ、転機…。

他の状態に転じるきっかけ。「人生の転機」「一つの転機を迎える」~goo辞書~

自分の転機を考えた時思いつくのは、周りの人は聞き飽きてるだろうけど、6年ほど前「事故」にあったことだ。

バイトに自転車で向かう途中の俺は、速度制限を無視した車に轢かれた……らしい。

らしいというのは、その前後記憶が無いからで、記憶が無いからには、後から聞いた話を自分で脚色作業するしかない。

ちぎれた記憶の脚色作業、あーたしかこう

…ってか。

その事故で俺は脳から血を出して、鎖骨肋骨尾てい骨その他諸々が粉砕した。

頭も身体もリセットしたわけだ。うむ、ここが間違いなく俺の転機。

学校を卒業してぶらぶらしてた俺、事故る

事故当時の俺は、専門学校を卒業したくせに専門的な仕事にもつかないで、喫茶店でアルバイトしていた。

実家に住まう、典型的な穀潰しだ。バイト先でバイト後も遅くまで酒飲んで、将来のことは考えないようにして。

その頃の俺は、日常を無理やりモラトリアムで塗りつぶしていた。

卒業後自由な時間が増えた俺は、以前にもまして精力的にバイトに勤しんだ。明確な目標があるわけでもなく。

そして夕方~夜にかけてのシフトに出るために、自転車を漕いでいた時のことだった。

俺は道路を右に曲がろうとして、俺の位置からは見えてなかった、右から直進してきた車に轢かれた。

その道は住宅街のど真ん中で、速度制限は20キロ。俺が脳から血を出すほどの衝撃を生むには、それなりに勢いと速度があったはずだが…。まあこのへん今となってはわからないし、もうどうでも良い。

その後から俺は2週間ほど意識が無い、意識が戻ってからも混濁した意識と戦った。

今思えばあれは臨死体験だ。当事者になってみると、まああんなものか、って感じだ。

USJのジェットコースターのほうが、よほど刺激的で非日常だ。

この体験で俺は、生と死の連続性を知る。生と死は表裏一体のものではないんだ。テレビ番組で言うところの、本編とCMみたいなもん。気づいたら始まってて、勝手に終わる。

人生なんてこんなもんだな、ってことを身をもって知った。

入院~リハビリ

入院中とかリハビリの話をしてるとキリがない。

左脳と脳幹、脳梁その他から出血していた俺は、身体を動かすどころか、呼吸すらままならない。自分の意志で何もできない状態が続く。

でも幸い、このときはまだ脳が思考に耐えられる状態じゃなかったので、あまり痛いとか苦しい記憶もない。

身体と脳の調子が戻ってくる過程で、俺はだんだん自分の状態を理解し始める。

「どうやら、とんでもないことになってる」

身体はうごかないし、小学生レベルの計算も解けない。

その頃俺はまだ20代そこそこ。今後何十年もこの状態が続くと思うと、ゾッとした。

その時明確に、こんな苦しみに耐え続けるなら死にたいと思った。

瀕死から命からがら助かって、周囲の人間も良かった良かった言ってるさなかで、俺は一人「死にたい」と思ったわけだ。なんだか皮肉だ。

この時また一つ学びを得た。

どれだけ恵まれた、祝福すべき状態の人でも、当事者は何らかの苦しみにあえいでいる。ふむ。

俺、自分と向き合う

入院中はずっと自分と向き合う作業だった。

お見舞いの友達や親が帰った後は、ひたすら孤独。

「もし、これからもこんな身体で生きるとしたら?」

「死にたい」

「もう、前みたいに歩けないのか?」

夜もずっとこんな調子で、マイスリー無しでは眠れなかった。

しかし若かったからか、行いが良かったのか、身体の調子はだんだんよくなってきた。

以前通りとはいかないまでも、70%可動は安定して取り戻した。

俺、一度死んだ気分で生きる

それからの俺は、以前のようなテキトーさで生きるのを辞めた。

周囲に感謝しながら、今できることをコツコツ頑張れるようになった。行動力がついた。

それと同時に、「どうせ一度死んだし」という力の抜け具合も身について、程よいバランス感覚を得たと思う。

事故の経験は、自分を深く見つめて、自分をより理解できた、これ以上無いいい転機だったと思う。

それまでの自分は、自分からも将来からも周りからも目を反らしていた。

今では、東京で一人暮らしできるくらいに回復したし、仕事にも満足している。

俺は望まざる機会で、自分と対峙したけど、今後行動しあぐねている若人には、「自分から目を逸らすな」って言ってあげたい。

自分を変えられる転機を見逃すなって。

休日はもっぱら映画

今週のお題「休日の過ごし方」

洗濯機回してる間にサクッと書いちゃいます。

 

私の休日はなるべく映画館に行くようにしてます。

行くようにしてますって言い方に義務感をにおわせるね。誰にも強いられてないのにね。

映画館に行かないときはお気に入りのスタバ(渋谷の公園前通り店)に行って、その時読んでる小説を読むよ。

土日どっちかで人とあったら、こうやって一人でのんびりする時間を作るようにしてます。

 

あーあとあれだな。青砥にある酵素風呂にも行きます。ここめちゃくちゃいい。

aotokousoburo.com

もうなんだかんだ4年位通ってる。最寄り駅から青砥まで一時間かかるし、ここ一回3000円取られるけど、その価値はある。

 

こう見ると俺は一人が好きなんだなあ…。

最近白石一文の小説ばかり読んでる

俺は基本的に年中小説を読んでるのであるが、最近はずっと白石一文の小説ばかり読んでいる。

白石一文は以前直木賞も受賞した作家なので、よく小説を読む人なばその名を知っている人も多いかもしれない。

白石一文 - Wikipedia

ちなみに、直木賞を受賞した「ほかならぬ人へ」は、白石一文にしては少し恋愛色の強い小説だった。基本的にどの小説でも恋愛色は強いが、この中編に限って言えばほぼ恋愛の話だ。

文句なしの傑作だけど、白石一文好きから言わせると物足りないのも確か。

俺は小説が読み手を選ぶと思っている派

自分は時たまオカルティックなことを考えると思うけども、その変な思想の一つが「創作物が人を選ぶ」というものなのです。

小説なり映画が、自分を楽しむに相応しい思想、哲学の持ち主を選んで、その人の前に現れると思っている。いや、そんなわけはないと言われるとそれまでだけど、時たま見たくて見たくてたまらないのに時間の合わない映画、どうしても用事が合わない観劇などを前にするとこんなことを思う。

しかもそういった都合の合わないフィクションは、少し時間が経つと全然見たくなくなるものだ。不思議。

白石一文の小説は基本エリートサラリーマンが主人公

白石一文は、デビュー作から一貫していつも高給取りのエリートサラリーマンを主人公に据えてきた。直木賞を受賞した「ほかならぬ人へ」は実家が金持ちなものの、本人は一般的なサラリーマンだったことも、あの作品が他と違うと思う所以でもある、

エリートサラリーマンから見える世界を通して、読者は「死生観」とか「恋愛観」を読み取る。基本的に金銭的に満ち足りている主人公だからこそ、純度の高い思想で読み手を楽しませる。あああと「仕事観」も読める。

俺は今仕事とか恋愛で悩んでるのかなーなんて思った

白石一文の小説の要素すべてが楽しい。

普遍的な死生観から、仕事観、恋愛観に至るまで、すべてが今の俺にジャストミート。楽しくて仕方ない。

ということは、俺は今「死生観(これは前から)」「仕事」「恋愛」のことをいつも考えてるってことだ。

上で書いた、「創作物が人を選ぶ」のがめちゃくちゃ当てはまっている気がしてしまう。「私という運命について」をもっと以前読んだけど、その時よりもっと楽しい。

あの時も今も「なんとなく」で読んでる。前は「運命について知りたい」と思っているときに本を手に取った。今は、「今後の生き方」を考えた時、再び白石一文の本を読もうと思った。

無理くり成り行きに理由付けしてるのはわかってる。でも、そうでもしないと、今の俺を取り巻く理解不明な運命を処理できない。今後の不安と付き合っていけない。俺はいつも「死ぬのが怖くない」ことを繰り返し言ってる。

でもこれは、死ぬのが怖いことの裏返しだ。本当に死ぬのが怖くない人は、死ぬことについて考えない。

でも白石一文の本にあったように、死から自分を遠ざける生き方は間違いだ。もっと死と適切な距離感で、幸福を享受するべきなんだ。死ぬのが怖いも怖くないもない。

寝る前の歯磨きみたいに当たり前のものとしていくこと。これこそが幸福なんだと思う。

 

白石一文について考えてたら生死の話になった。

「運がいい」ということ

人は古来より、「運気」「運勢」で人生を左右されてきた。

昔は占い師は現在より重要な立ち位置で存在してたし、現在も街中至る所に占い師はいる。俺も大阪に旅行したら絶対占ってもらう占い師がいたりする。

そして今でも、私たちは生活の中で「今日は運がいい」だとか「最近ツイてない」だとか言う。

この運気、実際にはあるものだろうか?

俺は、「ある」と思う。

とはいえ、運気と言っても、天気のように絶対的で超常的なものでもないと思っている。

その時の「運気」は、時期と、それ以前の行動と、その先の出来事、すべてが加味されて出来るものだと思っている。

良い運気に恵まれるためには、それ以前に「運がよくなるに相応しい」身分である必要がある。

これは仏教と少し似ている。

仏教ブッダの教えによると、「貧している人がなぜ貧してるかというと、与えてないから」ということだ。お坊さんがお布施を集める際も、貧乏な人の家を中心に回るそうだ。そうして、貧しい人も神に捧げることで、相応の恵みを得ることができるからだ。

これと同じだ。

いい運に恵まれるには、自分の能力をフルに活用して、世間に何らかを差し出さないといけない。

何もしないでなんでも手に入る人もいるだろうが、それは生まれながらにして、世界に愛されてる人とかそんなんだろう。普通何か自分のほしいものを手に入れるには、最大限もがいて苦しんで、手に入れるための努力をしなくてはならないものだ。

俺は実感として、ここ数年「運がいい」と思っている。

でもそれは、その生活を送るのと同時に何か世間に自分を差し出して来たからだと思ってるし、その分だけもらって然るべきだと思っている。なんのことはない。ギブアンドテイクだ。

ふと思った。

宝くじ5億円当てるためには、どれだけ自分を差し出せばいいのか。

想像もつかないものだ。

 

 

 

罪を悔いること 幸福は閉鎖である

 僕達がやりましたを2日で読破してしまった。

 窪田正孝主演でドラマ化されてるそうだ。本当に面白かった。

Twitterにも書いたけど、中村文則の小説みたいな話だった。

罪の話だ。懺悔の話。

誰しも大なり小なり、過去の罪を悔いる気持ちがあるんではないだろうか?

「あの時あんなことをしてしまった」

「あの時あんなことを言ってしまった」

そんな気持ち。

ささいなら良い。別に考えなくするのは簡単だ。

でもこの漫画みたいな大きな後悔なら大変だ。

基本的に、幸福を感じるには、他人の不幸やその他問題を考えないようにする必要がある。これは、中村文則の小説「悪と仮面のルール」にあった一文だ。

「幸福は、閉鎖だ。」

本当にそうである。

今も日本の何処かで、世界のどこかで人が死んでいる。もしかしたらすぐ近くで誰か死んでるかもしれない。でもその不幸は無視、閉鎖だ。

自分にとって都合の良いことだけを考えるのが、幸福のコツだ。

そして目に見えてわかりやすいセンセーショナルな不幸、地震や大雨被害へ心を痛める。そしてわずかばかりの寄付をする。結果、寄付した自分に満足だ。幸福。その災害で死んだ人のことは深く考えない。閉鎖だ。

これからも俺は、上手に他人を閉鎖して生きてくんだと思う。大人になるって、上手に外を閉鎖することかもしれない。

そしてあたかも、「俺はいつも他人を思いやって生きてますよ」って顔をするんだと思う。

みんな似たようなもんだ。

世は今日もこともなし、である。

会話はキャッチボール?否!ボクシングである

今日会社でも話したんだけど、会話のやり取りってキャッチボールじゃなくてボクシングだと思う。

特に初対面の会話。

「趣味は?」

「出身地は?」

とかって、試合序盤のジャブの応酬だ。だって、お互いの出方を伺ってる。

そして相手がパンチのやり取りの中で綻びを見せる。

「趣味は、一人旅ですね」

俺はその隙を見逃さない。フックでダウンを狙う。

「じゃあ、友達いないんだねー」笑いを誘うのだ。

笑いを取って(パンチが決まって)、相手の心を解きほぐして(ダウンさせて)、KOする(仲良くなる)。俺が会話してる時のイメージはこんな感じだ。

なんなら、相手の前のめりな言葉でダウンを奪われてもいい。

キャッチボールなんて平和で平板なものじゃない。俺にとって会話は、リズミカルで油断ならない、まさプロ同士の殴り合いだ。

そして俺は、その言葉の殴り合いが割りと好きだ。楽しいと思ってる。

年取るのって悪いことばっかじゃないよね

30が見える年齢になってきたころ、漠然と「老い」が怖くなってきた。

それは何故かと言うと、「選択肢が減る予感」があるからだ。

 

若いというのは、それだけで大きな武器だ。若さにかまけていろんな挑戦ができる。若いというだけで、ある程度の失敗は多めに見てもらえる。

 

でもこれからは失敗が許されなくなる。つまり、一回勝負となるのだ。

それはつまり、失敗を恐れて、確実に成功を取れる行動しか、必然的に選べなくなるということ。選択肢が減るのだ。

単純に、老いで身体の機能も落ちていくだろう。なんだか最近、考えも固くなってきた気がする。前はもっと素直で、考えも柔軟だったような…?

とにかく刻一刻と、身体は古くなっていって、死に一歩一歩近づいている。

とはいえまだどちらかと言うと若者だ。今しかできないこと、今後のために今やるべきこと、今やらなくても良いこと、それをしっかり考える毎日としたい。

 

とはいえ、前と変わらず、映画みて本読んで音楽聞く、そんないろんなものを取り入れる頭の隙間は空けておきたい。

 

10年後、今と違う何かで悩んでるんだろうが、一体どんなことで悩んでるのか、それが気になる。できれば増えた知識と経験に基づいて、なんかもっとご立派な事を悩んでいてもらいたい。

そう、きっと歳を重ねるにつけ、知識も経験も増えていくはず。そしたら考えも変わって、話す内容も変わっているはず。

そういう面では、加齢も悪いことばっかじゃないかなと思う。10年前の俺と今の俺だったら、今の俺の方が立派になったと思っているから。

10年後も楽しみだ。