最近白石一文の小説ばかり読んでる

俺は基本的に年中小説を読んでるのであるが、最近はずっと白石一文の小説ばかり読んでいる。

白石一文は以前直木賞も受賞した作家なので、よく小説を読む人なばその名を知っている人も多いかもしれない。

白石一文 - Wikipedia

ちなみに、直木賞を受賞した「ほかならぬ人へ」は、白石一文にしては少し恋愛色の強い小説だった。基本的にどの小説でも恋愛色は強いが、この中編に限って言えばほぼ恋愛の話だ。

文句なしの傑作だけど、白石一文好きから言わせると物足りないのも確か。

俺は小説が読み手を選ぶと思っている派

自分は時たまオカルティックなことを考えると思うけども、その変な思想の一つが「創作物が人を選ぶ」というものなのです。

小説なり映画が、自分を楽しむに相応しい思想、哲学の持ち主を選んで、その人の前に現れると思っている。いや、そんなわけはないと言われるとそれまでだけど、時たま見たくて見たくてたまらないのに時間の合わない映画、どうしても用事が合わない観劇などを前にするとこんなことを思う。

しかもそういった都合の合わないフィクションは、少し時間が経つと全然見たくなくなるものだ。不思議。

白石一文の小説は基本エリートサラリーマンが主人公

白石一文は、デビュー作から一貫していつも高給取りのエリートサラリーマンを主人公に据えてきた。直木賞を受賞した「ほかならぬ人へ」は実家が金持ちなものの、本人は一般的なサラリーマンだったことも、あの作品が他と違うと思う所以でもある、

エリートサラリーマンから見える世界を通して、読者は「死生観」とか「恋愛観」を読み取る。基本的に金銭的に満ち足りている主人公だからこそ、純度の高い思想で読み手を楽しませる。あああと「仕事観」も読める。

俺は今仕事とか恋愛で悩んでるのかなーなんて思った

白石一文の小説の要素すべてが楽しい。

普遍的な死生観から、仕事観、恋愛観に至るまで、すべてが今の俺にジャストミート。楽しくて仕方ない。

ということは、俺は今「死生観(これは前から)」「仕事」「恋愛」のことをいつも考えてるってことだ。

上で書いた、「創作物が人を選ぶ」のがめちゃくちゃ当てはまっている気がしてしまう。「私という運命について」をもっと以前読んだけど、その時よりもっと楽しい。

あの時も今も「なんとなく」で読んでる。前は「運命について知りたい」と思っているときに本を手に取った。今は、「今後の生き方」を考えた時、再び白石一文の本を読もうと思った。

無理くり成り行きに理由付けしてるのはわかってる。でも、そうでもしないと、今の俺を取り巻く理解不明な運命を処理できない。今後の不安と付き合っていけない。俺はいつも「死ぬのが怖くない」ことを繰り返し言ってる。

でもこれは、死ぬのが怖いことの裏返しだ。本当に死ぬのが怖くない人は、死ぬことについて考えない。

でも白石一文の本にあったように、死から自分を遠ざける生き方は間違いだ。もっと死と適切な距離感で、幸福を享受するべきなんだ。死ぬのが怖いも怖くないもない。

寝る前の歯磨きみたいに当たり前のものとしていくこと。これこそが幸福なんだと思う。

 

白石一文について考えてたら生死の話になった。

「運がいい」ということ

人は古来より、「運気」「運勢」で人生を左右されてきた。

昔は占い師は現在より重要な立ち位置で存在してたし、現在も街中至る所に占い師はいる。俺も大阪に旅行したら絶対占ってもらう占い師がいたりする。

そして今でも、私たちは生活の中で「今日は運がいい」だとか「最近ツイてない」だとか言う。

この運気、実際にはあるものだろうか?

俺は、「ある」と思う。

とはいえ、運気と言っても、天気のように絶対的で超常的なものでもないと思っている。

その時の「運気」は、時期と、それ以前の行動と、その先の出来事、すべてが加味されて出来るものだと思っている。

良い運気に恵まれるためには、それ以前に「運がよくなるに相応しい」身分である必要がある。

これは仏教と少し似ている。

仏教ブッダの教えによると、「貧している人がなぜ貧してるかというと、与えてないから」ということだ。お坊さんがお布施を集める際も、貧乏な人の家を中心に回るそうだ。そうして、貧しい人も神に捧げることで、相応の恵みを得ることができるからだ。

これと同じだ。

いい運に恵まれるには、自分の能力をフルに活用して、世間に何らかを差し出さないといけない。

何もしないでなんでも手に入る人もいるだろうが、それは生まれながらにして、世界に愛されてる人とかそんなんだろう。普通何か自分のほしいものを手に入れるには、最大限もがいて苦しんで、手に入れるための努力をしなくてはならないものだ。

俺は実感として、ここ数年「運がいい」と思っている。

でもそれは、その生活を送るのと同時に何か世間に自分を差し出して来たからだと思ってるし、その分だけもらって然るべきだと思っている。なんのことはない。ギブアンドテイクだ。

ふと思った。

宝くじ5億円当てるためには、どれだけ自分を差し出せばいいのか。

想像もつかないものだ。

 

 

 

罪を悔いること 幸福は閉鎖である

 僕達がやりましたを2日で読破してしまった。

 窪田正孝主演でドラマ化されてるそうだ。本当に面白かった。

Twitterにも書いたけど、中村文則の小説みたいな話だった。

罪の話だ。懺悔の話。

誰しも大なり小なり、過去の罪を悔いる気持ちがあるんではないだろうか?

「あの時あんなことをしてしまった」

「あの時あんなことを言ってしまった」

そんな気持ち。

ささいなら良い。別に考えなくするのは簡単だ。

でもこの漫画みたいな大きな後悔なら大変だ。

基本的に、幸福を感じるには、他人の不幸やその他問題を考えないようにする必要がある。これは、中村文則の小説「悪と仮面のルール」にあった一文だ。

「幸福は、閉鎖だ。」

本当にそうである。

今も日本の何処かで、世界のどこかで人が死んでいる。もしかしたらすぐ近くで誰か死んでるかもしれない。でもその不幸は無視、閉鎖だ。

自分にとって都合の良いことだけを考えるのが、幸福のコツだ。

そして目に見えてわかりやすいセンセーショナルな不幸、地震や大雨被害へ心を痛める。そしてわずかばかりの寄付をする。結果、寄付した自分に満足だ。幸福。その災害で死んだ人のことは深く考えない。閉鎖だ。

これからも俺は、上手に他人を閉鎖して生きてくんだと思う。大人になるって、上手に外を閉鎖することかもしれない。

そしてあたかも、「俺はいつも他人を思いやって生きてますよ」って顔をするんだと思う。

みんな似たようなもんだ。

世は今日もこともなし、である。

会話はキャッチボール?否!ボクシングである

今日会社でも話したんだけど、会話のやり取りってキャッチボールじゃなくてボクシングだと思う。

特に初対面の会話。

「趣味は?」

「出身地は?」

とかって、試合序盤のジャブの応酬だ。だって、お互いの出方を伺ってる。

そして相手がパンチのやり取りの中で綻びを見せる。

「趣味は、一人旅ですね」

俺はその隙を見逃さない。フックでダウンを狙う。

「じゃあ、友達いないんだねー」笑いを誘うのだ。

笑いを取って(パンチが決まって)、相手の心を解きほぐして(ダウンさせて)、KOする(仲良くなる)。俺が会話してる時のイメージはこんな感じだ。

なんなら、相手の前のめりな言葉でダウンを奪われてもいい。

キャッチボールなんて平和で平板なものじゃない。俺にとって会話は、リズミカルで油断ならない、まさプロ同士の殴り合いだ。

そして俺は、その言葉の殴り合いが割りと好きだ。楽しいと思ってる。

年取るのって悪いことばっかじゃないよね

30が見える年齢になってきたころ、漠然と「老い」が怖くなってきた。

それは何故かと言うと、「選択肢が減る予感」があるからだ。

 

若いというのは、それだけで大きな武器だ。若さにかまけていろんな挑戦ができる。若いというだけで、ある程度の失敗は多めに見てもらえる。

 

でもこれからは失敗が許されなくなる。つまり、一回勝負となるのだ。

それはつまり、失敗を恐れて、確実に成功を取れる行動しか、必然的に選べなくなるということ。選択肢が減るのだ。

単純に、老いで身体の機能も落ちていくだろう。なんだか最近、考えも固くなってきた気がする。前はもっと素直で、考えも柔軟だったような…?

とにかく刻一刻と、身体は古くなっていって、死に一歩一歩近づいている。

とはいえまだどちらかと言うと若者だ。今しかできないこと、今後のために今やるべきこと、今やらなくても良いこと、それをしっかり考える毎日としたい。

 

とはいえ、前と変わらず、映画みて本読んで音楽聞く、そんないろんなものを取り入れる頭の隙間は空けておきたい。

 

10年後、今と違う何かで悩んでるんだろうが、一体どんなことで悩んでるのか、それが気になる。できれば増えた知識と経験に基づいて、なんかもっとご立派な事を悩んでいてもらいたい。

そう、きっと歳を重ねるにつけ、知識も経験も増えていくはず。そしたら考えも変わって、話す内容も変わっているはず。

そういう面では、加齢も悪いことばっかじゃないかなと思う。10年前の俺と今の俺だったら、今の俺の方が立派になったと思っているから。

10年後も楽しみだ。

独り言

俺にはあまり向上心が無い。

「こうありたい」とか、「ああなりたい」とかが希薄だ。

俺だって、人から多く承認されたりしたい気持ちはある。だがそのために努力したり働きかけるのは、ひどく億劫だ。そこに割くリソースがだめなのか、その後強いられる努力が面倒なのか。

そう、俺はひどく面倒なのだった。

社会生活においてコミュニケーションは好きだ。人とのコミュニケーションで、心通わせる瞬間は、何者にも代えがたい幸福だ。そこに面倒な気持ちは無い。この点一点のみで、俺はここまで来たって自負すらある。

でもその他はだいたい面倒だ。勉強だって、なんだって。一人でやる運動は好きだけど。自分痛めつけてる感覚がなかなか乙だからだ。

未来がどうだとか、あまり考えたくない。成長してる自分が見えない。見たくはあるけど。

なるようになるってだらけた思考で逃げてる俺は、どこで行き詰まるんだろうか。もう20代も後半戦の俺は、これからどこに向かうのか。

意志薄弱だったもっと若い頃

h3で見出しをつけてみたりして。

俺は今でも意志薄弱な自覚があるが、もっと昔はさらに意志薄弱だったと思う。なぜあんなに何も考えないで生きてたのか。

なんか今思うと、考えが「詰まってた」感じがするんだな。詰まってるから流れない。今はもうちょっと流れが淀みない実感がある。

 そのきっかけは色々あると思うけど、そのおかげで今なんとかやってる。

 

なんだか疲れてきた。

物事がうまくいかない実感があるなら、自分の行動とか思考をせき止めてるものを見つけて、それを取っ払う努力を、してくれよな。

俺の中であんまり夏と映画は融和しない

今週のお題「映画の夏」

「映画の夏」って言うほど、俺の中であんまり夏と映画が結びつかない。

なんでかなーと思っていくつか理由を考えてみた。

1.夏休み映画がつまらない

ブロックバスター映画なんて言ったりするが、夏休み公開の映画ってのは金がかかってるものだ。

CGをふんだんに使って、脚本も万人にわかりやすく、キャストも金をかける。

そんな映画はえてして俺にとってつまんないもんだ。じゃあ行くなよって言いたくなるが、うーんそんなのばっかりやってるし、金がかかってる映画を見たい気持ちもある。

映画が面白いのは、アカデミー賞発表前後とか、なんかわかんないけど年末のイメージだ。夏はなんか…。

2.夏をテーマにした映画が好みじゃない

個人的な趣味もあるかもしれなかった。「夏!」って映画はなんかあんまり俺の中で印象が強くない。あんまり思い浮かばない。細田守大好きだけど、「サマーウォーズ」はそうでもない。バケモノの子は結構好きだが…

なんか、「そこのみにて光り輝く」で暑そうな部屋の中でセックスしてたのとかしか思いつかない。

冬の方が物語性あるのかもね。雪の映画の方が多そう…

3.夏は映画館いかない

別にほかのスポットでキャッキャキャッキャするわけじゃないけど、映画館行くのさえ億劫になってるのかも。

寒さから逃げるために映画館行くような気はするのに。不思議。


今回あんまり書けなかった。ゴジラまだ見てないしな。

ゴジラ見て、またなんか言いたくなったら書きます。