「運がいい」ということ

人は古来より、「運気」「運勢」で人生を左右されてきた。

昔は占い師は現在より重要な立ち位置で存在してたし、現在も街中至る所に占い師はいる。俺も大阪に旅行したら絶対占ってもらう占い師がいたりする。

そして今でも、私たちは生活の中で「今日は運がいい」だとか「最近ツイてない」だとか言う。

この運気、実際にはあるものだろうか?

俺は、「ある」と思う。

とはいえ、運気と言っても、天気のように絶対的で超常的なものでもないと思っている。

その時の「運気」は、時期と、それ以前の行動と、その先の出来事、すべてが加味されて出来るものだと思っている。

良い運気に恵まれるためには、それ以前に「運がよくなるに相応しい」身分である必要がある。

これは仏教と少し似ている。

仏教ブッダの教えによると、「貧している人がなぜ貧してるかというと、与えてないから」ということだ。お坊さんがお布施を集める際も、貧乏な人の家を中心に回るそうだ。そうして、貧しい人も神に捧げることで、相応の恵みを得ることができるからだ。

これと同じだ。

いい運に恵まれるには、自分の能力をフルに活用して、世間に何らかを差し出さないといけない。

何もしないでなんでも手に入る人もいるだろうが、それは生まれながらにして、世界に愛されてる人とかそんなんだろう。普通何か自分のほしいものを手に入れるには、最大限もがいて苦しんで、手に入れるための努力をしなくてはならないものだ。

俺は実感として、ここ数年「運がいい」と思っている。

でもそれは、その生活を送るのと同時に何か世間に自分を差し出して来たからだと思ってるし、その分だけもらって然るべきだと思っている。なんのことはない。ギブアンドテイクだ。

ふと思った。

宝くじ5億円当てるためには、どれだけ自分を差し出せばいいのか。

想像もつかないものだ。

 

 

 

罪を悔いること 幸福は閉鎖である

 僕達がやりましたを2日で読破してしまった。

 窪田正孝主演でドラマ化されてるそうだ。本当に面白かった。

Twitterにも書いたけど、中村文則の小説みたいな話だった。

罪の話だ。懺悔の話。

誰しも大なり小なり、過去の罪を悔いる気持ちがあるんではないだろうか?

「あの時あんなことをしてしまった」

「あの時あんなことを言ってしまった」

そんな気持ち。

ささいなら良い。別に考えなくするのは簡単だ。

でもこの漫画みたいな大きな後悔なら大変だ。

基本的に、幸福を感じるには、他人の不幸やその他問題を考えないようにする必要がある。これは、中村文則の小説「悪と仮面のルール」にあった一文だ。

「幸福は、閉鎖だ。」

本当にそうである。

今も日本の何処かで、世界のどこかで人が死んでいる。もしかしたらすぐ近くで誰か死んでるかもしれない。でもその不幸は無視、閉鎖だ。

自分にとって都合の良いことだけを考えるのが、幸福のコツだ。

そして目に見えてわかりやすいセンセーショナルな不幸、地震や大雨被害へ心を痛める。そしてわずかばかりの寄付をする。結果、寄付した自分に満足だ。幸福。その災害で死んだ人のことは深く考えない。閉鎖だ。

これからも俺は、上手に他人を閉鎖して生きてくんだと思う。大人になるって、上手に外を閉鎖することかもしれない。

そしてあたかも、「俺はいつも他人を思いやって生きてますよ」って顔をするんだと思う。

みんな似たようなもんだ。

世は今日もこともなし、である。

会話はキャッチボール?否!ボクシングである

今日会社でも話したんだけど、会話のやり取りってキャッチボールじゃなくてボクシングだと思う。

特に初対面の会話。

「趣味は?」

「出身地は?」

とかって、試合序盤のジャブの応酬だ。だって、お互いの出方を伺ってる。

そして相手がパンチのやり取りの中で綻びを見せる。

「趣味は、一人旅ですね」

俺はその隙を見逃さない。フックでダウンを狙う。

「じゃあ、友達いないんだねー」笑いを誘うのだ。

笑いを取って(パンチが決まって)、相手の心を解きほぐして(ダウンさせて)、KOする(仲良くなる)。俺が会話してる時のイメージはこんな感じだ。

なんなら、相手の前のめりな言葉でダウンを奪われてもいい。

キャッチボールなんて平和で平板なものじゃない。俺にとって会話は、リズミカルで油断ならない、まさプロ同士の殴り合いだ。

そして俺は、その言葉の殴り合いが割りと好きだ。楽しいと思ってる。

年取るのって悪いことばっかじゃないよね

30が見える年齢になってきたころ、漠然と「老い」が怖くなってきた。

それは何故かと言うと、「選択肢が減る予感」があるからだ。

 

若いというのは、それだけで大きな武器だ。若さにかまけていろんな挑戦ができる。若いというだけで、ある程度の失敗は多めに見てもらえる。

 

でもこれからは失敗が許されなくなる。つまり、一回勝負となるのだ。

それはつまり、失敗を恐れて、確実に成功を取れる行動しか、必然的に選べなくなるということ。選択肢が減るのだ。

単純に、老いで身体の機能も落ちていくだろう。なんだか最近、考えも固くなってきた気がする。前はもっと素直で、考えも柔軟だったような…?

とにかく刻一刻と、身体は古くなっていって、死に一歩一歩近づいている。

とはいえまだどちらかと言うと若者だ。今しかできないこと、今後のために今やるべきこと、今やらなくても良いこと、それをしっかり考える毎日としたい。

 

とはいえ、前と変わらず、映画みて本読んで音楽聞く、そんないろんなものを取り入れる頭の隙間は空けておきたい。

 

10年後、今と違う何かで悩んでるんだろうが、一体どんなことで悩んでるのか、それが気になる。できれば増えた知識と経験に基づいて、なんかもっとご立派な事を悩んでいてもらいたい。

そう、きっと歳を重ねるにつけ、知識も経験も増えていくはず。そしたら考えも変わって、話す内容も変わっているはず。

そういう面では、加齢も悪いことばっかじゃないかなと思う。10年前の俺と今の俺だったら、今の俺の方が立派になったと思っているから。

10年後も楽しみだ。

独り言

俺にはあまり向上心が無い。

「こうありたい」とか、「ああなりたい」とかが希薄だ。

俺だって、人から多く承認されたりしたい気持ちはある。だがそのために努力したり働きかけるのは、ひどく億劫だ。そこに割くリソースがだめなのか、その後強いられる努力が面倒なのか。

そう、俺はひどく面倒なのだった。

社会生活においてコミュニケーションは好きだ。人とのコミュニケーションで、心通わせる瞬間は、何者にも代えがたい幸福だ。そこに面倒な気持ちは無い。この点一点のみで、俺はここまで来たって自負すらある。

でもその他はだいたい面倒だ。勉強だって、なんだって。一人でやる運動は好きだけど。自分痛めつけてる感覚がなかなか乙だからだ。

未来がどうだとか、あまり考えたくない。成長してる自分が見えない。見たくはあるけど。

なるようになるってだらけた思考で逃げてる俺は、どこで行き詰まるんだろうか。もう20代も後半戦の俺は、これからどこに向かうのか。

意志薄弱だったもっと若い頃

h3で見出しをつけてみたりして。

俺は今でも意志薄弱な自覚があるが、もっと昔はさらに意志薄弱だったと思う。なぜあんなに何も考えないで生きてたのか。

なんか今思うと、考えが「詰まってた」感じがするんだな。詰まってるから流れない。今はもうちょっと流れが淀みない実感がある。

 そのきっかけは色々あると思うけど、そのおかげで今なんとかやってる。

 

なんだか疲れてきた。

物事がうまくいかない実感があるなら、自分の行動とか思考をせき止めてるものを見つけて、それを取っ払う努力を、してくれよな。

俺の中であんまり夏と映画は融和しない

今週のお題「映画の夏」

「映画の夏」って言うほど、俺の中であんまり夏と映画が結びつかない。

なんでかなーと思っていくつか理由を考えてみた。

1.夏休み映画がつまらない

ブロックバスター映画なんて言ったりするが、夏休み公開の映画ってのは金がかかってるものだ。

CGをふんだんに使って、脚本も万人にわかりやすく、キャストも金をかける。

そんな映画はえてして俺にとってつまんないもんだ。じゃあ行くなよって言いたくなるが、うーんそんなのばっかりやってるし、金がかかってる映画を見たい気持ちもある。

映画が面白いのは、アカデミー賞発表前後とか、なんかわかんないけど年末のイメージだ。夏はなんか…。

2.夏をテーマにした映画が好みじゃない

個人的な趣味もあるかもしれなかった。「夏!」って映画はなんかあんまり俺の中で印象が強くない。あんまり思い浮かばない。細田守大好きだけど、「サマーウォーズ」はそうでもない。バケモノの子は結構好きだが…

なんか、「そこのみにて光り輝く」で暑そうな部屋の中でセックスしてたのとかしか思いつかない。

冬の方が物語性あるのかもね。雪の映画の方が多そう…

3.夏は映画館いかない

別にほかのスポットでキャッキャキャッキャするわけじゃないけど、映画館行くのさえ億劫になってるのかも。

寒さから逃げるために映画館行くような気はするのに。不思議。


今回あんまり書けなかった。ゴジラまだ見てないしな。

ゴジラ見て、またなんか言いたくなったら書きます。

アイ・アム・サムを見た俺の感想

アイ・アム・サム」という映画。俺が小学生だか中学生なりたてだかの時日本公開された映画で、ショーン・ペンの演技で話題になったこともあって覚えてる。

そこから10年以上見る機会に恵まれなかった。

でも、とあるすごく親しかった人の生涯ナンバーワン映画と聞いていた。見なきゃなと思ったきり、その時は見なかった。理由はわからない。すすめられた映画はすぐに見る俺にしては珍しい。

その後、別の人と親しくなった。その人の好きな映画もアイ・アム・サムだった。今度こそ見ようと思った。今見る運命なのかなと思った。

 

で、見た。

あらすじ


映画「アイ・アム・サム」日本版劇場予告1

知的障害のために7歳の知能しか持たない父親サムは、スターバックスで働きながら一人で愛娘ルーシーを育てていた。母親はルーシーを生むとすぐに姿を消してしまったが、二人は理解ある人々に囲まれ幸せに暮らしている。しかし、ルーシーが7歳になる頃にはその知能は父親を超えようとしていた。そんなある日、サムは家庭訪問に来たソーシャルワーカーによって養育能力なしと判断され、ルーシーを奪われてしまう。どうしてもルーシーを取り戻したいサムは、敏腕で知られる女性弁護士リタのもとを訪ねるが、サムにリタを雇うお金などあるわけもなくあっさり断られてしまう……。

すごくいい映画だと思った。それは間違いない。ショーン・ペンの演技は怪演って言っていいレベルだし、ダコタ・ファニングはかわいい。細部まで行き届いた監督と脚本の熱意も感じる。

俺は嫌いな映画だった

でもはっきり言って、俺は嫌いな映画だった。

なんでかって言うと、俺がアイ・アム・サムに感じた感想が、俺の映画に求めるものから反れてるからだ。

改めてわかったのは、俺は映画を現実逃避するための道具とか、トリップするためのツールとして見てたってこと。

アイ・アム・サムに感じたのは、結局現実の生き辛さだけだった。

みんなはどうなのか知らないけど俺は自分の視点を、主人公のサムに重ねていた。サムが感じてたのは、ひたすら自分の意見が通じないもどかしさと、周りの人の言葉が理解できない息苦しさ。こんなの俺じゃなくても感じてることじゃないのか。

サムは周りに愛されながら、周囲の助けを得つつ、最終的に目的を果たす。

一見完璧によく出来た話だ。

生き辛さを再確認するために映画を見てるわけじゃない

この映画から何を得られた人が、この映画を好きになるのだろう。こんど聞いてみようと思う。

俺は映画を見て、「ああ、なんとかすれば、この世でもやっていく術があるのだな」って思いたいのだった。「なんとか健気に前向きにがんばれば、他人が足りない能力を補填してくれるよ」ではない。

そんなのあまりにも救いが無い。どうすればもってない奴でもこの世を渡っていけるかが知りたいのだ。他人の助けをアテに生きるわけにもいかない。

アイ・アム・サムはいい映画

とってつけたみたいに言うけど、結局この映画はいい映画だと思った。

基本どんな映画でも「楽しい」で処理できる俺をこんな気分にさせるんだから、待ちがいなくフックのある映画なんだと思う。見る価値もあると思う。

好き嫌いにはその人の人間性が色濃く出る。映画でもなんでも。人でも。

俺が基本的に救いのない映画が好きなのも、「ああこの世はやっぱり救いがないな」って思ってニンマリするからかもしれないし。

自分を知るには映画をみればいい。