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文体

この間久しぶりに西尾維新さんの本を読みました。

悲惨伝 (講談社ノベルス)

悲惨伝 (講談社ノベルス)

 

 これです。

結論から言うと、3ページくらいしか読めませんでした。

読まなかったのではない。読めなかったのです。なんだかすごく読むのが嫌になってきたのです。こう…ぞわぞわして。

 

これはシリーズ物の3巻で、2巻までは問題なく読めていました。

でも久しぶりに読んだこの人の文章は、なんていうかすごいくどい。

読み始めて最初に受けた印象は「ラーメン次郎のラーメンみたい」でした。

手元にないから例を出せないけど、すごいくどくど…いやこの人は前からそうだったんです。そういう文章を書きなさる人だったのです。でも読めなくなってしまった。

こう、一文ですむことを三行にする人だったんです。前から。だからページ数も無駄に多い。

 

何で読めなくなったんだろう。僕の好みが変わったのかなんなのか、とにかくこの人の本はちょっとしばらくいいです。

 

というように、ぱっと見ではわかりにくいけど作者によってその人特有の文体ってのがあると思います。

 

他にわかりやすいので言うとやっぱり村上春樹

よくネタにもされますね。「やれやれ」とか「僕は射精した」とかのあれです。

 

意外とあの人は一人称で書かないんだけどそれは置いといて、あの人の文章は西尾維新とは全然違いますね。

この人の文章は、なんていうか洋画的というかちょっと特殊です。

オシャレとか言われたりするけど、やっぱり気取ってて、体言止めを急に使ったり、急にエロい感じになったり。なんだこれって感じだけどやっぱり全体で見るとスッキリお洒落で綺麗。おしゃれパスタを食べたりクラシックのレコードを聴いたりしてヨーロピアンな時も多い。

だから海外でも受ける。

 

くどい文章で小賢しい若者を描く西尾維新さんとは違います。どっちが良いとは言えないけども。

 

あとわかりやすいのは森見登見彦さんとか。

あの人は豊富な語彙で素敵にかわいく文章をかきなさるおじさんです。

この広い世の中、聖人君子などはほんの一握り、残るは腐れ外道かド阿呆か、そうでなければ腐れ外道でありかつド阿呆です。

とかね。

 

他にも書く人によって全然文体が違って面白い。

文章って考えていることをそのまま媒体にコピペする作業だからその人の人間性がそのまま表れると思います。脳内がべっとり出てきます。

スティーブン・キング曰く、「文章とはテレパシーである」

 

 言葉よりもっともっと正確に”伝える”手立てがあるとすればそれは文章に他なりません。

 

絵でも良いだろうけど僕は絵心が無い!